エイコーン
愛の讃歌 ピアフ
スタッフ・キャスト
Cast
Author
Translator
Director
Staff
音楽監督 | 城所 潔 |
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美術 | 石井強司 |
照明 | 山本博史 |
音響 | 宗野 恵 |
舞台監督 | 大山慎一 |
監修 | 佐々木 準 |
歌唱指導 | 飯田純子 |
振付 | 大塚洋子 |
衣装デザイン | 栗原小巻 |
衣装製作 | 神谷和枝 |
制作担当 | 横田みはる |
PHOTO | 石田 純 |
宣伝美術 | 市川きよあき |
協力 | 三田村 隆子 |
企画製作 | エイコーン |
あらすじ
愛に傷つき、歌に生きた
伝説の歌姫の真実
ピアノとパーカッションによる
栗原小巻 の一人芝居
偉大なシャンソン歌手 エディット・ピアフ。
大道芸人の子として産まれ落ち、場末の町を流れ歩くひとりの娘。
その娘が天性の歌声で、一夜にして栄光の階段を駆け登るまでのサクセスストーリー。
そして数々の愛と苦悩の狂おしい過去を死の床から語り、自伝として残しました。
その自伝をもとに
愛に傷つき、歌に生きたシャンソンの女王「エディット・ピアフ」の真実を、栗原小巻が情熱的に演じ・歌う一人芝居。
ピアノ・城所潔、ドラマー・長谷川清司と共に、語りと歌でピアフの生きた足跡を辿るステージです。
序章 | 死期が近い事を悟ったエディットは、時間のあるうちに自分の真実を話しておきたいと語る |
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二景 | 幼いころの暮らしとルイとの恋、ふたりの間に生まれた娘の死 |
三景 | レイモン・アッソとの出会い『バラ色の人生』 |
四景 | マルセル・セルダンとの恋『愛の賛歌』 |
五景 | 4年間にわたる麻薬との闘い |
六景 | エディットが才能を見出し育てた若い歌手たちのことを語る |
七景 | 最後の恋人になったテオとの思い出 |
八景 | 莫大な金を稼ぎながら、すべてを他人のために使い果たす |
解説
彼女が歌った「愛の讃歌」は歌手だけでなく、多くの人たちが愛唱してきた。
極貧の身から大成し、数奇な運命に耐えて世界的なスターになった彼女のドラマティックな人生は映画や舞台で様々に脚色されてきた。日本でも数多くの女優がピアフを演じてきた。
栗原小巻も1986年と98・99年、2004年の三回にわたり演じてきた。
’86年初演の時は、それまでの清楚で品位のある小巻のイメージと違い、汚い言葉、体当たりで生きていくピアフを演じた凄まじい演技に驚いた記憶があるが、この役は彼女の芸域を広げることになった。そのピアフに改めて挑戦する。今回はピアフの自叙伝をもとに、加来英治が構成した新作で、新しいピアフが誕生する。
喜びと苦悩、ピアフの人生は、美しい泥にまみれていた。
その純粋な魂が、人々の胸を打つ。
両親、祖母、恋人、友人、歌、舞台、絶望、復活、そして真実の愛───。
「 私の人生はまもなく終わるでしょう。
その時がきたら
いろんな人が私の事を語りはじめるに違いない。
でも、みんなの話があまりに真実と違っていたら
私がどんな人間だったのか、本当のことは誰にもわからなくなってしまう。
時間のあるうちに、自分のことを話しておきたい 」
ピアフは、この自伝を書き終え、
まもなく亡くなった。
「ノン、私は悔やんではいないの」
この独白は、ピアフの最後の血の一滴である。
観劇のための予備知識として
知っているようで知らない
エディット・ピアフの歌
彼女の生き様と、その生き様から生まれてきた曲を知れば知るほど、この舞台もより味わい深いものとなるでしょう。
そのうちの数曲を歌詞とともにご紹介します。
十字架
Les croix
バラ色の人生
(しあわせ)
La vie en rose
愛の讃歌
Hymne a l’Amour
水に流して
(ノン 私は悔いていない)
Non, je ne regrette rien
神よ
(私の神様)
Mon Dieu
それが愛
C’est L’Amour
Édith Piaf
エディット・ピアフ
( 1915 – 1963 )
貧しい家庭に生まれたエディットは、2歳の頃に病気の療養のために北部ノルマンディーで娼館を営む祖母の元へ。幼い時期から娼館の娼婦や関係者の中で育ち、彼女の人格と人生観に強いインパクトを与えた。
6、7歳の頃には再び父親と放浪の旅芸人の生活を強いられる。
ある厳しい冬、父親のガシヨンが病気になり、家もお金もない環境で当時10歳にも満たぬエディットは通りで「ラ・マルセーエズ」を歌う。すると父親の稼ぎよりも多くの金が集まったというエピソードも伝記に記されている。天性の才能を持った小さなスターの誕生である。
1930年、15歳になる頃にはパリ郊外でのストリート・シンガーとして自身の道を歩み始める。
彼女は御用聞きの少年ルイ・デュポンと恋に落ち、16歳で女の子を産んでいる。その子はマルセルと命名されたが、2年後に小児性髄膜炎で病死してしまう。
{ ルイ・ルプレ }
1935年にルイ・ルプレに見い出され、彼の経営するナイトクラブ ”ジャニーズ” で歌い始める。
エディットの身長は142cmに過ぎず、その小柄な容姿からルプレはのちの芸名となる「小さなスズメ」の愛称を彼女に与え「 La Môme Piaf 」の名でデビュー。スターダムへの道が開かれた。
しかし翌年、ルプレはナイトクラブにたむろする不良たちに射殺されてしまう。出会って間もなくして良き理解者を失ってしまったエディット。
{ レイモン・アッソ }
ルプレの死後、エディットは傷心の中パリに戻り、同じくルプレの元でデビューしたレイモン・アッソという人物に出会う。彼はエディットをスターにすべく、パリのミュージック・ホール “A・B・C” の舞台に立たせた。アッソはエディットに愛を注ぎ、彼女もまた彼を必要としていたという。当時エディットが歌っていたレパートリーの歌詞もすべてアッソが書いたものである。だがこのふたりにも別れの時が訪れる..。
{ ジャン・コクトー }
1940年、エディットを絶賛する人物の一人であったジャン・コクトーが彼女のために脚本「 Le Bel Indifférent 」を執筆する。彼女はまた、俳優のモーリス・シュバリエや詩人のジャック・ボーガットのような有名人と知己となる。自ら多くの歌詞を書き、作曲家達と協力した。代表曲「バラ色の人生」は第二次世界大戦のドイツ占領下に書かれた。この時期彼女は大変な成功を収め大きな人気を得る。
第二次世界大戦が終わった翌1946年「バラ色の人生」をリリース。
戦後、彼女はシャンソン仲間とアメリカ制覇を目指す。フランス語を、シャンソンを理解できない聴衆に対してのチャレンジを決意するのであった。
彼女はシャルル・アズナヴールのデビューを手助けし、自らのフランス、アメリカでの公演旅行に同伴させた。アズナブールの他にも、イヴ・モンタン、ジルベール・ベコー、ジョルジュ・ムスタキなど、エディットに才能を見出された歌手は多い。
{ イヴ・モンタン }
この頃には大スターとなっていたエディットは、イヴ・モンタンと出会う。
エディットは彼の為にシャンソンまでも書いているのだが、モンタンの映画出演や一人前の歌手として成長して行く様子に嫉妬を感じたのか、モンタンは取り巻きからは外されてしまうのである。
1947年10月、このアメリカ初公演では大女優で歌手でもあるマレーネ・ディートリヒとも知友を結び、以後2人は生涯にわたる親友となった。この初公演の際にプロボクサーのマルセル・セルダンとも出会う。
{ マルセル・セルダン }
彼女は生涯の大恋愛の相手、マルセル・セルダンと出会い恋仲になるが、そのセルダンは1949年に飛行機事故で死んでしまう。
翌1950年にリリースした「愛の讃歌」は、エディットがセルダンの死を悼んで作ったのだともいわれたが、セルダンの生前に書かれたものであることが判明している。相思相愛で誰もが知る仲ではあったが、妻子を持つセルダンとの恋愛に終止符を打つために書いたものだと考えられている。
翌1951年にエディットは自動車事故に遭い、その後ドラッグと酒に溺れる人生を送る事になる。
エディットは2度結婚しており、最初の夫は歌手のジャック・ピルス。ふたりは1952年に結婚し、1956年に離婚した。
2人目の夫は歌手・俳優のテオファニス・ランボウカス(「テオ・サラポ」の名で知られる)。サラポはエディットよりも20歳も若かったが、エディットの大ファンであったことが昂じて交際するようになり、ふたりはマレーネ・ディートリヒの介添えのもと1962年に結婚した。夫であるサラポは妻エディットの死後、妻の残した多額の借金を独力ですべて返済した。
1963年、人生最後の曲「ベルリンの男 – L’homme de Berlin」を録音。
1963年10月10日、享年47歳 リヴィエラにて死す。
(公式の命日は死が公表された10月11日とされている)
世界的な名声を得たのちの彼女は『二人分の人生を生きたの』と自らを回想したほど、波瀾に満ちた人生を送った。
遺体はパリのペール・ラシェーズ墓地に埋葬された。彼女のそのライフスタイルゆえに、カトリック教会のパリ大司教は葬儀におけるミサの執行を許さなかったが、葬儀には死を悼む無数の人々が路上に現れ葬列を見送り、パリ中の商店が弔意を表して休業し喪に服した。墓地での葬儀は40,000人以上のファンで混雑した。シャルル・アズナヴールは第二次世界大戦後、パリの交通が完全にストップしたのはピアフの葬儀の時だけだったと述懐している。
観劇の感想
北九州市民劇場の感想より
- 「え?小巻さんがあのエディット・ピアフを演じるの?」これが最初の感想でした。上品で清楚な小巻さんは、人生の底辺を知り、苦しみの中を生き抜いたピアフとは真逆なんじゃないかなと想像がつかなかったのです。
しかし予想は見事に裏切られました。舞台が明るくなると栗原小巻色に染まったピアフがそこに生きていたのです。そして90分の間、客席の私たちは苦しみ多く、熱いピアフの人生を共に生きることができたのです。
なんと純粋で正直で傷つきやすく、愛を心から求めた人であったか。そのことを小巻さんの迫力ある、しかも繊細な演技が感じさせてくれました。
- どんな時にもたくましく愛情深く生きていくピアフ に感動しました。ピアノとドラムの生演奏で、ピアフが歌うパリのクラブにいるようでした。
- 軽やかな身のこなし、透き通るような歌声、一時間半の一人舞台は「すごい」「すごい」の連続でした。
ピアフと小巻さんの想いが見事に重なり、波乱万丈の人生を生き抜いた心のつよさがビンビン伝わってきました。
- 幕開きからカーテンコールまで、愛のしなやかさと力強さに満ちていました。一人で多くの人物を巧みに演じ分ける力量に驚嘆!特に病室で、我が子と愛を交わすシーンには胸を打たれました。そして麻薬と苦闘する場面では強さを弱さを激しく表現して、ピアフが乗り移ったかのようでした。また終盤、身を売ろうとしますが寸前に我に返り人間の誇りを取り戻すピアフの姿を情感豊かに見せてくれました
- ダンスも素敵でした。最初はパワフルでエネルギッシュなダンス。次は、シルクハットとステッキを使い、お茶目で軽妙で、私はいつの間にか拍手をしていました。
次例会のたね
Profile
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栗原 小巻
弟は演出家 加来英治
1966年
劇団俳優座入団
1967年
TV『三姉妹』他
日本映画製作者協会賞受賞
1968年
TV『風林火山』他
TV大賞優秀タレント賞受賞
1971年
舞台『そよそよ族の叛乱』他
紀伊國屋演劇賞受賞
1972年
映画『忍ぶ川」他
毎日映画コンクール主演女優賞受賞
ゴールデンアロー賞映画賞受賞
1981年
エールフランス女優賞受賞
舞台『ロミオとジュリエット』他
1991年
芸術祭優秀賞受賞
舞台『復活』
芸術祭賞受賞
’67年、NHK大河ドラマ『三姉妹』お雪で、脚光を浴び、その年、日本映画製作者協会新人賞を受賞。’68年には、『三人家族』『みつめいたり』『風林火山』で、日本放送作家協会賞、第一回テレビ大賞優秀タレント賞に選ばれる。’72年には、『忍ぶ川』(毎日映画コンクール主演女優賞、ゴールデンアロー賞映画賞、エールフランス女優賞を受賞)
仕事の中心である舞台は、’68年に日生劇場『三人姉妹』イリーナ役が初舞台。’71年には、『そよそよ族の叛乱』で、紀伊國屋演劇賞を受賞。『ルル』をはじめ、千田是也氏の演出作品に多く主演。また、’81年、木村光一氏演出『ロミオとジュリエット』ジュリエット役で芸術祭優秀賞。’91年には、千田是也氏演出『復活』カチューシャ役で芸術祭賞を受ける。
’86年2月には、俳優座劇場でエイコーン第一作としてロシアの演出家セルゲイ・ユールスキイ氏を招き、『恋愛論』を初プロデュース、主演する。その後、同作品をモスクワで上演。高い評価を得る。世界的演出家エーフロス氏の演出『桜の園』に主演、新しいラネーフスカヤ像を創造。2000年には、ロシアの演出家アレクサンドル・マーリン演出千田是也追悼『肝っ玉おっ母とその子供たち』にアンナ役で主演。加来英治演出作品『愛の讃歌 PIAF』『プレンティ』他、多数。
1995年より2000年まで、テネシー・ウィリアムズの著作権者マリア・セントジャスト女史と九演連・川述事務局長のご尽力により実現した『欲望という名の電車』に主演。新劇運動として281回の公演を重ねた本作では、陰影のあるブランチを作りあげる。(2010年に再演する)他に、東宝ミュージカル『マイ・フェア・レディ』イライザ役で主演。
国際的活動としては、『NINAGAWAマクベス』で、’85年、英国エジンバラ芸術祭に参加。同作品を、アムステルダム、ロンドン、ニューヨーク、オタワ、シンガポールで上演。レディ・マクベス役は、本場の批評家から絶賛を浴びる。また『セツアンの善人』を、北京、上海、広州、香港で上演。 日ソ合作映画『モスクワわが愛』『白夜の調べ』『未来への伝言』に主演。中国映画では、謝晋監督『乳泉村の子』(原題;清涼寺鐘声)で残留孤児の母親役を演じる。
1995年~2022年 鑑賞運動、新劇運動のなかで創造したエイコーン作品と役名
『欲望という名の電車』 | ブランチ |
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『PIAF』 | ピアフ |
『薔薇の刺青』 | セラフィナ |
『令嬢ジュリー』 | ジュリー |
『アントニーとクレオパトラ』 | クレオパトラ |
『アンナ・カレーニナ』 | アンナ・カレーニナ |
『メアリー・スチュアート』 | メアリー・スチュアート |
『櫻の園』 | ラネーフスカヤ |
『松井須磨子』 | 松井須磨子 |
『愛の讃歌─ピアフ』(一人芝居) | ピアフ |
1971年 | 「冒険、藤堂作右ェ門の」(俳優座) |
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1972年 | 「八百屋お七牢日記」(俳優座) |
1982年 | 「食肉市場のジャンヌ・ダルク」(俳優座) |
1983年 | 「メアリー・スチュアート」(俳優座) |
1988年 | 「エセルとジューリアス」(俳優座) |
1995年 | 『欲望という名の電車』 |
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1999年 | 『PIAF』 |
2004年 | 『アントニーとクレオパトラ』 |
2007年 | 『令嬢ジュリー』 |
2012年 | 『アンナ・カレーニナ』 |
2016年 | 『メアリー・スチュアート』 |
2019年 | 『松井須磨子』 |
監修 佐々木 準 氏
昭和28年帝国劇場入社。同年11月、帝劇ミュージカル「赤い絨毯」(森繁久彌・有島一郎主演)のさく・編曲、音楽指導を担当。昭和29年8月東京宝塚劇場にて自作曲のミュージカルバレエ「陽気な水兵」を初演。東宝ミュージカル「お軽と勘平」(榎本健一・越路吹雪主演)、「極楽島物語」などの作・編曲、音楽指導を担当。また、日本バレエ協会をはじめいくつかのバレエ団からの委嘱によるバレエ音楽の作・編曲。昭和41年5月、作曲作品リサイタルを芦野宏、深緑夏代ほか日本を代表するシャンソン歌手が出演するコンサートをイイノホールで開催。リサイタル、コンサート多数。これまで、舞台、TV、CMから社歌、校歌に至る幅広い作・編曲においても高い実績をほこる。
音楽監督・ピアノ演奏 城所 潔 氏
(日本シャンソン・カンツォーネ振興協会理事長)
ドラマー 長谷川清司 氏
わが愛の讚歌 ― エディット・ピアフ自伝
翻訳者 中井多津夫氏への敬意と感謝(リスペクト)
中井多津夫は、東大仏文科を卒業。ミステリー作家ジョルジュ・シムノンの『妻は二度死ぬ』等、翻訳家としても著名。エディット・ピアフ自伝のあとがきには、次のように書かれている。
- ピアフは、本書の完結とほぼ同時にその生涯を終えた。
- ピアフの葬儀に群衆が殺到。
- 『ル・モンド』は、本書を絶賛。
- ピアフの死後、17年の時を経て、かつて、原本で読んだ、この書の翻訳を思いたち、完成。
最後に、ピアフの真の姿を読み取って欲しいとある。
- 汚れなき魂、ピアフの真実が、この作品の主題である。
- イエスは、マグダラのマリヤに言った。
- 「この女は多くを愛したから、その多くの罪は許された。」
エディット・ピアフ自伝より、ピアフの魂の言葉(中井多津夫訳)
- 【この世界でいちばん素晴らしいものはたったひとつだけ、それは、愛の歌。】
- 【愛は、いつも私から逃げていく。気がついたらまた一人ぼっち。】
- 【マルセル・セルダンが、私の人生を変えたのです。】
- 【テオ、あなたを幸せにしてあげる自信がないの。私たちにとって、いいことは何もないのよ。】
- 【私はたえず勇気というものを持ちつづけたいと願ってきました。】
- 【ジュ・ナン・コネ・バ・ラ・ファン《私には終わりがわからない》】
公演スケジュール
- 岡山市民文化ホール
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例会日 昼 夜 5/18 木 – 7時 5/19 金 2時 – 5/20 土 休演日 5/21 日 2時 – 5/22 月 2時 – 5/23 火 2時 –
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西大寺市民劇場例会
西大寺公民館大ホール -
例会日 昼 夜 5/11 木 – 6時45分 5/12 金 2時 –